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脚色欲ってあるのかも

Posted by junko on 27.2011 ポーランド Poland   0 comments   0 trackback
2010年10月24日、私はワルシャワの旧市街を歩いていた。




ワルシャワ。
ポーランドの首都。
持ってる情報、以上。



ほとんど無に近い予備知識でもって
街歩きを始めると、
意外と五感が働くものだ。

というのも、
何故だかこの街を形作る建物に違和感を感じてしまう。
例えて言うなら、
ディズニーランドの中で見るヨーロッパ的な街並の風景。
すべてが、「本物っぽく作り上げた偽物」
そんな感じがしてならなかった。
ディズニーランドのそれならまったく問題はない。
だってアミューズメントパークの一環なんだから、
ひととき騙されたって逆に心地良いってもんだし。
だけどここは現実に存在する街で、
ましやて一国の首都であり、観光客もたくさん訪れている。
なのに何だろう、この違和感。



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ガイドブックをごそごそ取り出し調べてみる。
あー、なるほど。
第二次世界大戦で街がほぼ全壊に近いほど、
メチャクチャに破壊されてしまった。
それを市民の手によって、
 
「壁のひび一本に至るまで」

忠実に再現されたのが
現・旧市街らしい。




だからだったんだ。
でもー。
細かく再現されたヒビ一つとったって、
やっぱり本物との差は歴然。
もちろん、愛郷心をもって一般の市民達が手を合わせ、
元の景色を取り戻そうとした努力は計り知れない。
だからこの違和感を感じてしまう街自体には、
特になんのマイナス感情もない。
むしろそうやって忠実に再現しようとしたけども、
結果元通りになんてならなかった、
その違和感を抱えたままの街の姿を曝け出すことで、
戦争のもたらす悲劇を今もなお伝えたいんじゃないんだろうか。



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そしてワルシャワを語るうえで欠かせないのが、
第二次世界大戦末期、ドイツ軍に占領された我が街を取り戻そうと、
ワルシャワ市民が団結して二ヶ月に渡って反乱した、

『ワルシャワ蜂起』

味方してくれると信じていたソ連軍の裏切りが大きく響き、
結果蜂起は失敗に終わってしまう。





街角には当時の面影を残す銃撃の後が。



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公園にも同じく。




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壁に描かれたストリートアートも、
この苦い歴史を後世に残そうとする現代の若者の意思によるもの。



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「Pamientamy」の意味はポーランド語で、


『私は忘れない』



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ワルシャワ蜂起で亡くなった市民の数、およそ20万人。
私の故郷、釧路の全人口とほぼ同じ数。



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記念碑はあまりにも悲しい色だった。




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知らなかった、いや学習したはずだがすっかり忘れてしまった
「世界史」が、
今目の前で現実として突き刺さってくる。
少し疲れた精神を、公園で休ませた。
東欧に入ってからというもの、
どの街も紅葉が美しい。



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そして素朴なポーランド料理で身体も温まった頃には、
また旅人としてのエネルギーが湧いて来た。



「もっと知りたい」と。







ある晩、道端を埋める人々の集団をみつけた。
プラカードを持っている人もいれば、
何やら歌っている人もいる。
なんだなんだと好奇心で近寄っていく他の市民に、
一生懸命スピーチをしている人もいる。



なんだ?この寒い夜に。



興味を持って私も近づく。
自分のような取り巻きのうちの一人に思いきって質問してみた。

「これ、何の集まりなんですか?」

「あぁ、ここは大統領官邸なんだ。
 今年この国の大統領が飛行機墜落事故で亡くなったのは知ってるかい?
 あの日からこうやって大統領を偲ぶ人々が毎晩集まってるんだ」

「え!?毎晩ですか?」

「そう、毎晩。ほんとよくやるよね、、」

この男性はきっとポーランド人じゃないんだろう。
すごく客観視した意見だった。
そして周りをよく見ると、たしかに花が添えられてもいる。

「中にはね、あの事故はロシアの罠だと言ってる奴もいるんだよ」

「どうして?」

「ポーランドとロシアは昔から仲が悪いっていうか、複雑だからね。
 それにあの事故が起こった日は、
 カチンの森事件の追悼式をやるはずだったんだから。」

「たしかに複雑な事情が重なった日だね」

「そう。それでそういう意見を持った派と、ロシアを擁護する派とで、
 分かれて言い合ったりしてるんだよ」

「へぇ~。ちなみにあなたはどう思ってるんですか?」

「オレ?オレはねぇ、いやぁ、たしかに曰く付きの日だからねぇ、
 何かロシアも怪しい気がしないでもないんだけどねぇ」


なんだなんだなんだ。
歴史に触れたと思ったら次は外交問題か!
何やらソワソワしてきたぞ。
だけどもう外も暗くなっていたし、
それ以上そこに留まるのにも気が引けて、私は宿へと帰った。








ワルシャワで泊まっていたホステルで、
アニータというポーランド人の女性と同室になった。
洗練された都会的な雰囲気を持ちつつも、
気さくに話しかけてきてくれた。

彼女は今オーストラリア人の夫とドイツのベルリンに家をかまえているが、
仕事のため月に一度は自国ポーランドを訪れるらしい。
クラクフ近くのジョルィという街で、
博物館のディレクターをしているという彼女。
なるほどその職業が納得できるような話し振りだ。

今回はその仕事に関連する会議がワルシャワで開かれるため、
二泊だけしていく予定だといった。

それだけ話した後、

「あ、ちょっとダーリンから電話だ。ごめんね!」

そう言って電話口に出た彼女は、
さっきまでの都会的な雰囲気はかろうじて残しつつも、
すっかりラブモード。
ラブモードって単語自体が死語のような気がしないでもないが、
もう気にしないことにする。私は昭和女だ。



とにかく彼女に興味を持った私。
幸いにも相手も同じように私に興味を持ってくれて、
どんどん話し込んで行った。
そしてあの大統領官邸前での出来事をぶつけてみた。


「実際のところ、どうなんだと思う?」

「あぁ、あの事件ね、、、あれは本当に、
 私にとっては、もうポーランドの恥ね」

「恥?」

「そうよ。なんかロシアのせいにしようとしてる人もいたり、
 マスコミがおもしろ可笑しく取り上げているけど、
 実際あの事故の本当の原因は、単なるバカな人間のバカな判断よ!」

「バカな人間って、ポーランドの政府ってこと?」

「そうよ!どこの国に、一国の大統領と副大統領やその他の要人たちを
 おんなじ一つの飛行機に乗せて飛ぶバカがいると思う?
 あり得ないでしょ!?」

「あー、たしかに、何が起きても対応できるように、
 それぞれの要人をバラバラに分けたりはできたはずだよね」

「それが普通なのよ!なのにみーんな同じ飛行機に乗るなんて、、
 それに、あの日は本当に天気が悪かったのよ。
 飛ぶ前から今日はやめといた方が良いっていう意見もあったのよ。
 それにね、使った空港もどこかの地方のちっちゃい空港なのよ。
 普通は国際空港なり使うでしょ?
 なんでそうしたかって言うと、大統領が自分の言う通りになるように、
 あえてそういう空港選んで、パイロットも選んだのよ。」

「そうだったんだ、、」

「パイロットも、大統領に歯向かうとクビにされちゃうから、
 仕方なく従ったのね。その結果がこれでしょ。
 ほんとに私はそのパイロットが可哀想で仕方無いわ。
 しかもね、あの大統領最初は追悼式に参加しないって言ってたのよ。
 なのに突然コロッと意見変えて参加しようとした。
 それもすべて自分がヒーローになるための脚本だったのね」

「・・・」

「ほんっとに、恥だわ!あの事件はポーランドの恥!
 あんなバカな判断しかできない人間達に政治をやらせてた、
 私達国民の恥だわ!」




だんだんヒートアップしていく彼女の話を
食い入るように聞いていた。
アニータは、ひどく興奮し、怒っていた。
私も、絶句しながらも興奮していた。
そんな話、そうそう聞けるもんじゃない。
実際のところ、さっき路上で男性に話を聞いた時点では、
私も「なんかロシア怪しい、、」なんて風に、
根拠もないくせに疑っていた。
それだけに彼女の意見はストレートに響いてきた。



「みんな事実に脚色するのが好きなのね。
 マスコミも、市民も、みんなね。
 そんなのくだらないわ!」





アニータまじかっけー。
自分も含めた自国民に喝を入れるなんて。
完全に彼女にノックアウトされた私は、
さっそく彼女の連絡先を聞き出して、
次に行く都市がベルリンであることを告げ、
必ず再会しよう!と約束をしたのだった。



 
 
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スピルバーグとパンプキンスープ

Posted by junko on 24.2011 ポーランド Poland   0 comments   0 trackback

クラクフの旧市街は、
訪れた多くの旧市街の中でもひときわ美しかった。
それもそう、
第二次世界大戦でドイツに占領されたにも関わらず、
あまり被害を受けずに済んだからだ。



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ここは大学のキャンパス内。
紅葉がベストシーズンを迎えていた。
いいなぁ、こんな綺麗なキャンパス。。
学生たちが生き生きして見えたのは気のせいかな。



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そういえば私が通ったキャンパスも、
銀杏並木がキレイだったな。
ただひとつ、道に落ちた銀杏を踏んでしまった時の、
やりきれないニオイを除けばね。



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前日のアウシュビッツの余韻がまだ残る体は、
自然とユダヤ人居住地区へと向かう。



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今でこそシナゴーグも多く残るこのカジミェシュ地区は、
第二次世界大戦中のドイツ占領下においては、
ユダヤ人のゲットーとして、周囲を壁で囲まれ完全に外界から隔離されていたという。

しかし現在この地区は、
オシャレなカフェやレストランが連なり、
若者が集まる人気エリアへと発展を遂げた。


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寒さしのぎで闇雲に入ったカフェがやたらお洒落で、
なおかつそこで食べたパンプキンスープが、
やたら美味しかったのを覚えている。



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1993年、あるひとつの映画が公開されるまで、
この地区は『元ゲットー』の名の通り、
閑散とした寂しいエリアだったという。
しかしその映画公開後、爆発的に観光客が増加し、
その結果、今のような洗練された街に変わっていった。

ホロコーストを描いた映画としてはあまりにも有名な、
『シンドラーのリスト』の舞台となった工場の在処が、
まさに、ここだったのだ。






もちろん訪れたその工場は、
いかにユダヤ人達がこのゲットーにおいて
虐げられた生活を送っていたのかを、
ビジュアルでストレートに伝えるミュージアムと化していて、
当時の面影を感じるのはこの門だけだった。



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当時のユダヤ人家庭の台所を再現した展示。
食器棚の裏に隠された銃が。



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労働力として多くのユダヤ人を雇っていた経営者、
オスカー・シンドラー



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「シンドラーの工場」というこのミュージアム自体も、
なんだかとても洗練されている。
なるほど2009年にオープンしたばかりというから納得だ。
けれどその見せ方のスタイリッシュさが、
歴史の重みを伝えるには逆効果だったように思える。
少なくとも私の心にはあまり響かなかった。




なんでもかんでも素直に感じるわけじゃない。
そういう自分を知った気がする。




それよりも、ひとつの街をこんなにも変えてしまうほど、
力のある映画を作ったスピルバーグのことを思った。
ユダヤ系アメリカ人として、
この映画を作る星のもとに生まれたような彼のことを。

映画は10代の私にたくさんのことを教えてくれた。
遠い外国の歴史、政治、文化、恋愛、人間。
20代の私の背中を押してくれた。
30代の私はこれから映画とどんな関係を築けるだろう。
楽しみだ。







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ポーランドは物価が安くてほんとに助かった。
これは甘いビーツのソースがかかったポテトボール。
質素だけど美味しい味。




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中央広場に佇んでいると、
ふいに聴こえてくるラッパの音。
音の鳴る方へ振り向くと、
そこには聖マリア教会が。


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すると突然ラッパの音が止んだ。
その音の消え方はとても不自然で、
だから余計に耳に残る。
これは昔クラクフがタタール軍の襲撃に遭った際、
ひとりのラッパ吹きが危険を周知させるため、
ラッパを吹いている最中に矢で射殺されたという言い伝えに倣って、
今でも1時間おきにラッパが吹き鳴らされているのだ。
しかも録音じゃなく、実際に人間が吹いている。
それを毎日欠かさず続けているというのだから、
ポーランド人の粘り強さたるや侮れないだろう。
突然ぱたっと演奏を止めるあたりも、
メッセージ性があって私は好きだ。





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そして何故か私はここでひとつのアクションに出る。
無性に髪が切りたくなって、
一度そう思うともうどうしようもなくなって、
物価が安いことを理由に、
美容室へと向かったのだ。



さんざん吟味した結果、
値段的にも店の雰囲気的にも大丈夫そうな所を選んだ。



つもりだった。



その美容室ではまさかすべてのカットをバリカンで行うなんて、
誰が想像するというのだ。
本当だ。
彼女は一度もハサミを使うことなく、
ポーランド語で何かつぶやきながら、
私の髪を切った。



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終着駅

Posted by junko on 23.2011 ポーランド Poland   2 comments   0 trackback
ポーランドの古都クラクフに着いたのは、
早朝6時。
一度宿に荷物を置き、すぐ駅へ戻る。
そのままバスに1時間半ほど揺られ辿り着いたのは、




アウシュビッツ強制収容所




行こうか行かないか迷っていた。
自分には受け止められるか自信が無かったからだ。
だけど人間の負の遺産をこの目で直に見れる場所に居る。
ならば。



行かなきゃダメだ。




現在は博物館として人々に公開されているその入り口に、
中谷さんはやってきた。
日本人で唯一、アウシュビッツ博物館公式ガイドとしての資格を得て、
現地に住み、
毎日訪れる日本人観光客のために収容所のガイドを続けている。
物腰が柔らかく、
それでいて私達観光客との距離が近すぎず遠すぎずの絶妙なポジションで、
静かに彼の口から言葉が綴られ始めた。
その声のトーンは予想外に淡々としていて、
最初こそ違和感を感じたものの、
気づけばその口調は自然と頭に入ってくる。
そう、心にではなく、頭にだ。


まさにそれは中谷さんの狙うものであった。
実際に収容所体験をした人物から話を聞き出し、
それを解釈したうえで私達に伝えてくれる。
もちろん膨大な数の書籍や記録も読んでいることだろう。
その中には耳を塞ぎたくなるような、おぞましい映像が目に浮かぶような、
そんな話もある。
けれどそれをそのまま伝えてしまうと、
受け手の私達はストレートに心で感じてしまい、
いったんそう心で受けてしまうと、
なかなか印象というものは変えられない。

「なんて酷いことしたんだ、ナチスは」

だけど中谷さんが伝えたい事は、
そして私達が知るべき事は、
そんなことじゃない。
だから中谷さんはわざと冷淡とも受け取れる口調で語り、
私達がまず脳で聞き取り、そこからゆっくり心に降りていくような、
あくまでも客観視できるように努めていると話していた。


とても意義ある仕事をなさっていると思う。
並大抵の努力じゃできないことだ。
心から中谷さんを尊敬し、そして、感謝している。
彼のガイド無しでは、薄い見解しかできなかったはずだ。






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朝から重たい雲で覆われていた空に、
一瞬のすきまが。
秋の柔らかい太陽に照らされたその場所は、
つい70年前そこで世にも恐ろしい虐殺が行われていたとは想像し難いほど、
穏やかで、静かな情景だった。



そこから私達はバスで15分ほど移動し、ブジェジンカという村に。
第二アウシュビッツとも呼ばれるその場所は、






ビルケナウ強制収容所






膨れ上がる収容者はアウシュビッツだけでは管理しきれず、
新たに増設された絶滅収容所である。





死の門をくぐった。





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人々をぎゅうぎゅうに乗せた列車が終着駅に辿り着く。
そこで待っていたものは

「死」以上に恐ろしい「人間」だった。










帰りのバスの中。
何故私があんなに行くか行かないか迷っていたのか、
その理由にこそ問題があることに気づいた。
過度に脚色された歴史の『イメージ』が、
恐怖感や嫌悪感を抱かせる。
受動的に抱いたその感情は、よっぽど大きなショックがない限り、
塗り替えられることはない。
そう、現実としてこの目におさめるまでは。



本当に恐ろしいのは、
この歴史において本当に恐ろしいのは、



「無視すること」




当時、或る一つの国で起こっているおぞましい惨劇を、
知っていながら無視した他国の人間にも共通する。
自分には関係ないと。
巻き込まれたくないと。

情報が洩れない訳がない。
知られない訳がない。
けれど、ソ連軍が国境を超えてアウシュビッツに近づいてくるまで、
『それ』は続けられた。




たとえば自分が。
たとえば父親が。
たとえば兄妹が。

収容所の看守だったら?

そんな疑問を中谷さんに投げられた。

自らの仕事を全うしないと、
自分の身にも危険が及ぶ。
そんな状況下で与えられた、人殺しという任務。

抵抗できるだろうか?
非の行く末を討論したところで虚しい。




アウシュビッツでの死亡者数も、
多くは150万人と言われてはいるが、
400万人説もあれば、はたまた10分の1の15万人という説もある。
信憑性のある記録が残っていない限り、
真実は永遠に日の光を浴びることは無い。

さらにユダヤ人だけが虐殺されたと思っていたのは大間違いで、
同性愛者や精神障害者、ジプシー、聖職者や政治犯なども同じ道をたどっていた。
彼らの出身国はポーランドやソ連、その他28カ国に及ぶという。
ユダヤ人だけじゃないのだ。
そのことを、私はここに来るまで知らなかった。
さらに同性愛者や精神障害者は、人体実験の恰好の餌食にされた。
双子も実験された。
ただ、双子だったからという、それだけの理由で。





たくさんの疑問を抱きながら帰路につく。
ただ不思議なことに、
実際にあの場所を見たことで、
以前より冷静にこの歴史について考えることができる。
そして

「無視すること」

が及ぼす悪化と負の連鎖が、
21世紀に生きる私達にも共通して起こり得る可能性を、
感じてそして、




私の意識に刻んだ。







  

プロフィール

junko

Author:junko
北の大地でお魚食べて育った少女が、
世界へ旅に出ます。

写真が好き。
でも人はもっと好き。

まだ見ぬ出会いを、笑顔を、そして
感動を求めて。

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